「コーヒー淹れてこい」
 ──発端はそんな、とても何気ない一言だった。






 ルッスーリアとマーモンとレヴィ・ア・タンとベルフェゴールが、つまりザンザスとスクアーロを除く四人が丁度同時に任務で出払っている夜の事だ。
 大体騒がしい幹部面子が四人いなければ、ヴァリアーのアジトは頗る静かだった。スクアーロはちょっかいを掛けられないから怒鳴る理由がないし、スクアーロが怒鳴らなければザンザスが殴りに来る事もない。

 そんな中でザンザスから「コーヒーを淹れてこい」と命じられたのは、月が空に昇って大分経った頃合だった。いつもであれば、頼まれずともルッスーリアがコーヒーを淹れてボスに供しに行っている時間帯だ。
 ヴァリアー幹部のコーヒーを淹れるのは、いつも決まってルッスーリアだった。そう割り当てられている訳ではないが、彼曰く「ままごとの延長みたいで、こういうの好きなの」らしかった。
 だが今宵は、そのルッスーリアが不在である。呼び付けられてコーヒーを命じられたスクアーロは、ザンザスの部屋を辞して少しだけ悩んだ。
「……コーヒー、」
 ルッスーリアの拘りで、彼がコーヒーを淹れる時はまず豆を煎る事から始めていた。当然煎り立ての豆で淹れるコーヒーは美味しかった訳なのだけれど、それが美味しいが故に今宵ザンザスに出すコーヒーをインスタントで済ませる訳にはいかない。そして困った事に、スクアーロはインスタントのコーヒーしか淹れた事がなかった。
 参ったように頭を掻き、スクアーロは廊下を歩き出す。とりあえずはキッチンに行かねば、話は進まなかったからだ。


 キッチンはしんと静まり返っていた。夕飯時を終えてしまえば使う人間はいないし、使いそうな人間筆頭であるルッスーリアが不在だから当然だった。
 きちんと片付けられたその様子を見回して、スクアーロは困ったように眉尻を下げる。インスタントコーヒーの場所なら解るが、コーヒー豆がどこに仕舞われているのかスクアーロは知らなかった。
「あら、スクアーロ様。どうなさったんですか」
 困り果てていた彼に声を掛けたのは、ひょこっと顔を覗かせた女性隊員だった。
 振り返ってその姿を視界に認め、スクアーロの口端が吊り上がる。彼女がルッスーリアとコーヒーやら紅茶やら茶菓子やら、そういったものの話に花を咲かせているのを何度か見かけた事があったからだ。
「お前、コーヒー淹れられるよなぁ? ボスが淹れて来いって言うんだが、オレはインスタントしか淹れた事ねぇんだよ。一人分で良いから淹れてくれ、ルッスーリアの手順でな」
「そりゃ、淹れられますけれど……」
 これ幸いとばかりにスクアーロが言う。が、彼女は何かしら思案するような顔付きで黙り込んだ後、おずおずと唇を開いてスクアーロを窺った。
「──それ、スクアーロ様がボスからお受けになった命令ですよね?」
「……あぁ?」
 自分の下した命令を拒否する気かとスクアーロが凄む。彼女は慌てて首を左右に振った。ぴしりと居住まいを正す。
「いえ、ご命令でしたら遂行致します。ですが、……その、……ボスはスクアーロ様の淹れたコーヒーがお飲みになりたいのでは、と……」
 後半に行くにつれて、彼女は非常に肩身が狭そうな調子だった。
 言われた言葉に肩を竦めて、スクアーロは首を振った。否定の形で、左右に。
「ンな訳ねぇよ、あのボスだぞぉ? いつもの時間に、いつものコーヒー飲みてぇだけだろ。良いから頼むぜ、持って行くのはオレがするからよ」
 軽く笑いながらそう返されて、女性隊員は頷きながらコーヒーの準備に取り掛かるしかなかった。
 絶対飲みたいからだと思うんだけどなあ、とは流石に口には出せなかったが。


「──つー訳で、ちいと時間が掛かっちまったのはそういう事情があったんだよ。でもルッスーリアの淹れるコーヒーとそう変わらねぇ筈だぜぇ?」
 数十分を経てコーヒーを片手に現れたスクアーロは、デスクの上にそれを供しながら緩く笑ってそう言った。
 ちらりとスクアーロを見上げ、ザンザスはカップに手を伸ばす。白い磁器が彼の唇に触れ、薫り高いそれが口中へと流し込まれるのをスクアーロは眺めた。
 喉がそれを嚥下して、カップがソーサーに戻される。口に合わなかったろうかとスクアーロは肩を竦めたが、ザンザスの眉間に皺は寄らない。
 どうやら女性隊員に淹れて貰ったコーヒーは、彼の口に合格点を貰えたらしい。安堵したような息を吐き、スクアーロは踵を返して部屋を辞した。

 扉の閉まる音を向こうに聞きながら、ザンザスは酷くつまらなさそうに唇を尖らせる。
(……殴る理由がなくなった、)
 あいつが一人で淹れて来たのなら、不味いと盛大に殴ってやるつもりでいたのに。

 気を利かせて他人に淹れさせたスクアーロに、ザンザスは少しだけ機嫌を損ねて鼻を鳴らした。

(08/11/22)