「…………あれ、」
 可愛らしい素っ頓狂な声が響いて、スクアーロは振り向いた。
「……笹川京子」
 淡いピンクのバルーンドレスに身を包んだ彼女を認めて、スクアーロはその名を思い出す。
 確か向こうの──ボンゴレ十代目の晴の守護者を兄に持ち、その十代目とつい先日婚約を公にした女性だ。
「あ……ヴァリアー、の。……ミスター、じゃなくてええと……」
 慣れないイタリア語でしどろもどろになりながら、京子は必死にコミュニケーションを取ろうとしているようだった。




 ボンゴレの取り仕切るパーティが行われている広いホールの隅っこは、幾つかの椅子が並べられた簡易の休憩場所になっていた。
 立食スタイルのパーティだ、このホールの半数近くを占める年寄りには長時間の立ち話は辛いのだろう。そういった者達──つまり招待されたファミリーの重鎮たちへのサービスである。
 もう暫く時間が経てばぽつぽつ利用者も現れるであろうその場所は、けれどもまだ開会してから小一時間も経たない内となると座っている者は見えない。
 ベルベットの張られた猫足の椅子が数脚並ぶその列から少し離れて、スクアーロは歓談に混じるでもなく、また居並ぶ色とりどりの料理や美酒に舌鼓を打つでもなく、ただ壁にスーツに包まれた背中を預けて佇んでいた。
 視線はホールのほぼ中央──ボンゴレ十代目である沢田綱吉の隣に立って、仏頂面ではありながらも招待客と言葉を交わすザンザスへと注がれている。
 スクアーロのこの場での任務は、ザンザスの護衛だ。
 ホールの隅はスクアーロにとって都合が良かった。ホールから見る分には目立たないのに、隅に立って見遣るホールはとても解りやすい。不審な動きをする人影があれば、すぐさま駆け出せる。
 護衛を任じられたパーティでは、だからスクアーロはいつもそうやって隅に陣取って過ごしていた。

 ──故に今宵もそうやって過ごしていたのに、スクアーロの傍にいる京子の存在は酷くイレギュラーだった。
 本来なら、あの綱吉の隣で微笑んでいるべき女性だ。婚約を公にしたということは、ボンゴレのファーストレディになったも同じなのだから。
「……日本語でいい」
 イタリア語に苦戦している事を見抜いたスクアーロがそう言うと、京子はほっとしたように表情を緩めた。
「よかった。まだイタリア語、覚えきれていなくて」
「向こうの大学出てからすぐこっちに来たんだろ、それでそんだけ喋れれば充分だぁ」
 恥ずかしげに呟かれた京子の台詞にスクアーロがそう返し、そこで会話が一度途切れた。
 ちらりとスクアーロが横目で京子を見遣ると、彼女は必死で共通の話題を探しているようだった。放っておけば良いものを、とスクアーロは内心で舌打ちする。夫婦そろってお人よしだ。
「──……何故沢田綱吉の隣へ行かねぇ。旦那の横で愛想振りまくのも、ボスの妻の仕事だぞ」
 任務に集中出来なくなることを厭って、スクアーロは釘を刺した。
 京子の肩がぴくんと跳ねて、それから戸惑ったように視線を上げ、綱吉の方を遠く見遣る。
「……わかってます。わかってるんだけど、……でも、それだけだから」
 ピンクのルージュを差した唇をきゅっと引き結んで、京子は綱吉をじっと見つめたまま、そう言った。
 訝しげに眉根を寄せて、スクアーロは問い返す。
「それだけ?」
 京子は言おうか言うまいか、酷く悩むように視線を伏せた。強い照明が彼女の頬に睫毛の影を落とすのを、スクアーロは感慨なく眺める。
 やがて彼女は緩くかぶりを振って、視線を再び遠くへ据えた。綱吉を見ているのかは解らない。視線上には綱吉がいたが、その姿は色んなスーツに囲まれて見えなかった。
「……ツっ君に結婚して下さいって言われたとき、凄く嬉しかったんです。でも私、マフィアの事なんて全然知らなくて……しかも、ツっ君はそのボスで。だからイタリアへ渡る前の日に、聞いたんです。ツっ君に、私はどうすればいいの、って」
 幼稚ですよね、と自嘲するように京子は囁いて一息置いた。
「…………ツっ君は、何にもしなくていいんだよ京子ちゃん、って言いました。僕が一緒に居てほしいだけなんだ、って……」
 語尾が微かに震えていた。
 スクアーロはそれを敏く気付きながらも、慰めるような台詞は決して口にはしない。
 恐らくは今彼女に、慰めは必要なかった。少なくともスクアーロはそう考える。
「──裏で怖ェ事してるかもしれねえ旦那の隣で、にこにこしてるだけなのは嫌、かぁ? ンなもん、俺に愚痴られたって知らねぇよ」
 突き放すように告げた言葉に、京子がぱっと顔を上げて唇を戦慄かせた。
 泣くだろうかと思いはしたものの、スクアーロはそちらへ顔を向けなかった。マフィアのボスに嫁入りするとはそういう事だ。
 京子は俯いて、少しだけ肩を揺らして息を吐いた。再び上げられた顔は、スクアーロの方へと向けられる。
「スクアーロさんが、羨ましいです」
 僅かな沈黙を破った京子の声に、スクアーロは少しだけ驚いて彼女を見る。
「私もあなたのように、強い人と背中合わせが出来る“何か”を持ちたかった。……山本君と並んで、剣豪って言われてるの、知ってるんですよ」
 得意げに笑ってみせる彼女に、ふ、とスクアーロの空気が緩んだ。口端に薄らと笑みを引っ掛けて、会場の真ん中にいるザンザスを見遣る。
「背中合わせじゃ、顔が見れねぇだろ。近い未来のマダム、お前は沢田綱吉に正面から向かい合って、その両手で頬でも包んでやりゃあいい。ついでに乳と唇でも押し付けたら上出来だろ、」
 その台詞に京子は火がついたように赤面して、もじもじと照れたように下を向いてしまった。初々しい、とスクアーロは肩で笑う。

 ──背中合わせでは顔が見れなかったから、スクアーロはとても後悔した。
 彼を、ザンザスを護ってボスの座へと押し上げるだけではいけなかったのだと理解したのは、氷漬けの八年を終えてから暫くした頃だ。
 幼く若かったあの頃に、例えばもしも正面から彼と向かい合う気概が自分にあったのならば、彼との──ザンザスとの関係も、何か変わっていたのだろうか。
 スクアーロは考えようとしたけれども、止めた。過ぎた事を悔いるのは性に合わなかった。

「う゛ぉい、マダム。愚痴ってスッキリ出来たんなら、真ん中までエスコートするぜぇ?」



「──随分話し込んでたみてぇじゃねえか。あいつの女に興味があったとは知らなかったが、」
 パーティ会場を後にしての帰路、その黒塗りリムジンの車内にて、革張りのシートに深く背中を預けるザンザスはそう呟いた。
 隣席でぼんやりと車窓の向こうを眺めていたスクアーロは、その言葉に振り向いて肩を竦める。
「放っておくわけにも行かねぇだろぉ? 仮にもボンゴレのファーストレディだ」
 ザンザスは返答せず、ふん、と気に食わなさそうに鼻を鳴らした。
 機嫌を損ねただろうかと、スクアーロは辟易する。この上司のご機嫌取りとは十年以上前から己の不得手とする所だが、かと言って不機嫌のまま放っておくと面倒臭い。
「ボス、」
 投げ出されていたザンザスの右手、その手の甲にそっと指先を這わせてスクアーロは囁いた。夜に似つかわしく、その響きは静謐さを伴って空間へ満ちる。
 骨張ったスクアーロの剣士の指に、ザンザスの指が掬い取るように絡んだ。低い体温同士が混ぜ合って擦り合わさって、徐々に密度の高い温度へと変化してゆく。ぬるま湯のようなその行為は、性的でないじゃれあいとしてスクアーロは好きだった。
 ──もしもあの時、背中合わせではいけないと気付いてザンザスと向き合っていたのなら──今の関係も取り巻く状況も、何か変わっていたのだろうか。
 変わっていたとして、その未来が酷く幸福なものだったとしても、スクアーロは今の方が余程良いと思考する。
 お互いに何か足りていない方が、がっつきやすくて似合いだった。尊重しあい愛し合うような、沢田綱吉と笹川京子のような関係はきっと馴染まない。
 きっと、そう、今繋いでいるこの手のような温い温度がちょうど良い。
「機嫌取りのつもりか? 気色悪ィんだよ、カスが」
 そんな事を考えていたら、ザンザスの不愉快そうな声が聞こえて手が振り払われた。
 先ほどまで応じていた癖に、絆され掛けている事に気付いたらしい。更に不機嫌さを増した横顔を面倒臭そうに見つめて、スクアーロは手を引いた。
 片手にじんわりと残った疼く熱を緩く握り締めて、スクアーロはこっそりと嘆息する。

 ──この残留する温もりだけでザンザスの不機嫌具合も許容してしまっているあたり、自分も相当だった。

(08/10/10)