「……ッ!」
 喪失感に身体を引き攣らせ、スクアーロは浅い眠りから覚醒した。
 ちゃんと柔らかなベッドで眠っている筈なのに、急にその底がぽっかりと抜けてしまって、虚空に投げ出されてしまうような。抽象的ではなく、酷く現実めいた感覚を伴ったその喪失に、スクアーロは浮いた汗を無意識に拭う。
「──またか、」
 舌打ちをして、自らの心臓を探るように左胸へと掌を這わせる。薄い皮膚の下で早鐘のように鼓動が響いていた。この夢を見て飛び起きた朝は、いつもそうだ。
 ──崖から人が飛び降りる夢。
 それ以上の事は解らない。夢の中では理解しているのかもしれないが、目覚めた後までその記憶は残らない。ただ、冴え冴えと月が照らす中、長い髪の影が崖から身を投げる瞬間を、スクアーロはその後ろから見つめているのだ。
「──……は、」
 ベッドの中で、深く息を吐く。
 長い髪は銀だった。まるで、自分のような。けれどスクアーロはあの夢のように儚く自分が身投げをするとは欠片も思っていなかったし、する予定もない。
 影はいつも振り返らない。まっすぐに落ちてゆく。スクアーロは夢の中で、『それ』から目を離すことを許されない。
 結局いつも、わからないままでベッドから起き上がるのだ。

 窓の外はまだほの暗い。秋の盛り、日の出は一日刻むごとに遅くなる。それでも聞こえる鳥の声が、陽射しの代わりに朝を告げていた。
 降りるベッドのスプリングが柔く撓んで、スクアーロの身体をそっと押し出す。眠りが浅いのは、不必要なほどに柔らかいこのベッドの所為もあるのではないかと、スクアーロは肩越しにそれを睨んだ。

 ──スクアーロが、引いてはヴァリアーの幹部たちがこのボンゴレ本家にやって来てから二週間ほどが経つ。
 処遇が決まるまでの間、ザンザスとその守護者五名の身柄は、ボンゴレ本家に留め置かれる事になった。理由は簡単、九代目やその守護者、家光やCEDEFの目が幾つも光る中であれば、無謀など出来よう筈も無いからだ。
 スクアーロ達には一人に一室の広々とした客室こそ与えられたものの、扱いが良くなっただけの捕虜に過ぎなかった。本家内での自由など無いに等しく、どこで何をしようと監視の目がついて回るのだから。
 あのリング争奪戦後、遅々として回復の進まないザンザスだけは、治療や諸々の対応を兼ね、スクアーロ達からも隔離された上で九代目の手元に暫く置かれる事になった。
 無論スクアーロは突っ撥ねて、散々家光に噛み付いた。連れて行かれたらザンザスは二度と帰って来ないような気がしたし、スクアーロの居ない所で、ザンザスが何かを決意してしまうのが怖かったからだ。けれど家光はスクアーロの要求を良しとしなかったし、ザンザスは相変わらず一日を病室に閉じ篭って過ごしていた。
 渋々その状況を受け入れて、まんじりともせず過ごす日々。スクアーロという暗殺者を殺すには、その穏やかで退屈な日常は充分すぎた。武器を取り上げられ、邸内で移動出来るのは自分用の客室と、それから暇潰しの娯楽が集められるたった一室のみ──そして自らを苛む夢。

 身体をしとどに濡らす汗を厭って、スクアーロは部屋に備え付けのバスルームへと篭る。ついでに朝の身支度も終えて出てくる頃には、室内に置かれる簡素なテーブルセットの上に、朝食の準備が為されていた。
 ノックなどしない。スクアーロの意志などここでは尊重されない。それがボンゴレに噛み付いた、ヴァリアーへの扱いだった。
「……何度目だっけか、」
 椅子を引いて腰掛けながら、ぼやく。それが求める数字はノックなく扉を開かれた回数ではなく、知らぬうちに朝食の用意がされていた回数でもなく。
「五回目、か」
 ──十四日間で、五回。見る夢はいつも同じ、夢見るときにはそれに魘される。
 厳重に警戒されたボンゴレ本家内で、誰かからの霧の幻術で攻撃の類を受けているとも考え難かった。やや冷めたエスプレッソに口をつけ、それをソーサーへと音高く戻しながら、スクアーロはわしわしと頭を掻く。
 変な夢に魘されているのだと、そんな事は女々しくて言えやしないと意地を張るのはそろそろ止めよう。いつ何時、ザンザスが復調して九代目の寝首をかくと言い出すかは解らない。そうなった時にその望みに応える事こそが、いまのスクアーロの存在意義なのだから。
 ハムエッグとサラダの朝食を全て残らず平らげて、スクアーロは食後の余韻もそこそこに席を立つ。まだ早い時間だったが、ベルフェゴールならともかく、彼であれば既に起床しているだろう。
「問題は、相談料っつってどのくらい持ってかれるかなんだよなぁ……」
 唇に残るエスプレッソの残滓を舐め取りながらスクアーロはぼやく。彼の容赦無い取り立ては、相変わらず健在だった。


 * * *


「変な夢?」
 マーモンは、そう反芻してからぽてりと小首を傾げた。それからふ、と唇だけを震わせて笑う。
「らしくないね、スクアーロ。夢も見ないほど深く眠りそうな印象だけれど」
「う゛お゛ぉい、何が言いてぇ。センチメンタルに、悪夢に悩むのは似合わねぇってか。ほっとけ、オレだって悩みたくねぇんだぜぇ」
 マーモンの揶揄するような軽い語調に、彼に割り当てられた客室内、出窓に腰掛けて片膝を抱えながらスクアーロが舌打ちした。マーモンはふわりと浮かんでスクアーロの傍、出窓の近くに置かれる小さなテーブルの上に座って呟く。
「良いよ、聞こうか。どうせ今日も一日、テレビを見ながらトランプでもするしか暇を潰す方法はないしね。相談料は……今は考えないでいてあげるよ。ここから出られた暁には、ちゃんと指定の口座へ振り込んで貰うけど」
「きっちり取るんじゃねぇか」
 眉根に皺を刻んでぼやくものの、スクアーロはそれに不服を唱えたりしない。マーモンが金を取るということは、相応に対応してくれるという表れなのだと、スクアーロは知っている。
「──……夜、だと思う」
 夢の記憶を手繰り寄せる。窓の向こうには朝の清々しい空気が満ちていて、背中のそれ越しに感じる陽射しは暖かい。
「夜で、月が見えていた。崖、みてぇな所に立っている誰かの姿を、オレは後ろから眺めている。いや、オレの視界じゃないのかもしれねぇなぁ。まるでドラマか何かのワンシーンを、リアルに見てるみてぇな……」
 マーモンはまだ何も言わない。フード越しの視線をただじっと、スクアーロに向けているだけだ。
「そのうち、雨が降り出して……最後には、崖から飛び降りる。その決まった内容を、五回、夢に見た」
 語り終えたスクアーロから、マーモンは尚も視線を離さなかった。
 すぐさま、とは言わずも何らかの回答を貰えるものと思っていたスクアーロも流石に居心地が悪くなったのか、僅かに身動ぎしてから、おい、とマーモンに低く声を掛ける。
「何とか言えよ」
「──……前世の存在を信じるかい?」
 何とか言えよ、と突っついて漸く聞こえたマーモンの声に、スクアーロは訝しげに瞬く。突拍子もない問い掛けだと思ったからだ。否、「ナントカ」と返されなかった辺りに寧ろ感謝すべきなのだろうか。
 置いといて、スクアーロは鼻白む。前世だ来世だと占いめいた言葉を交わすのは好きではなかった。占星術で見るような、過ぎてしまった過去や来るかどうかも解らぬ未来より、スクアーロは今を生きる事で精一杯だったからだ。
「う゛お゛ぉい、くだらねぇ事聞くなぁ。そういうのはてめぇが一番よく知ってるじゃねぇか、マーモン。オレはそんな不確定なモンが嫌いだってなぁ」
「嫌いなのは知ってるよ。信じているかどうかを聞いたんだ。……でもその反応だと、信じてすらいなさそうだね」
 マーモンはふわりと宙に浮かぶ。それからスクアーロの眼前、視線の合わさる高さまで。その幼い赤子の唇が、言葉を紡ぐ。
「──僕は、輪廻転生を信じている」
 その言葉の声色は柔らかくとも、曲がらぬ信念がその底に嗅ぎ取れた。背中の窓越しの穏やかな朝の気配や黄金色の陽射しが急に遠くなったような気がして、スクアーロは眼差しを狭めた。マーモンは再び囁く。
「前世があり、今世に繋がり、来世に結ぶ。一つの魂で共有する幾つもの生、その記憶や生き方は、継承されずとも脈々と流れ続いてゆく。幾つかの細かな流れがいつか大海に通じるように、違う生を生きていても、結局同じ魂の轍を踏む。僕の持論さ」
 その持論はスクアーロも知る所であった。だから金を集めるのだと、マーモンは時折酒に濡れた唇で零す事があったからだ。
 それが彼の持論なら、それを貫けば良い。けれどスクアーロは前世だの来世だの輪廻転生だのは嫌っていると、今さっきも言ったばかりではなかったか。
 スクアーロは唇をへの字にひん曲げた。
「聞いてねぇよ、ンな事ぁ。オレはただ、夢の話を、」
「前世の記憶を、夢に視る」
 遮るようなマーモンの台詞に、スクアーロの視線が鋭さを帯びて持ち上がる。
「──まさか、」
 短くスクアーロは呟いた。マーモンが肩を竦める。
「随分と脊髄反射で否定をするんだね、スクアーロ。……僕は医者でも学者でもないから、人の脳と夢のメカニズムなんて知らないけれど……でも、繰り返し視る夢なんだろう?」
 問われて、スクアーロは俄かに胸中に生まれた戸惑いを持て余しながら浅く頷く。
 夢の中で翻るのは、緩く柔らかそうな銀髪だった。言わば、自分のような。けれどそれだけで、あれは前世の記憶なのだと呑み込んでしまうのは癪に触る。
 悶々としない表情に陥ってしまったスクアーロを見て、マーモンはふふ、と鼻先で笑った。
「夢っていうのは、人間の脳の奥の奥、本人でさえ忘れたような記憶が強く影響したりもする。だから霧の幻術でも、夢を媒体にして強い幻を見せたりするなんて事はよくある手法さ。だからスクアーロの記憶の根底に眠る、前世の記憶が何かを訴えて同じ夢を視せているんだと仮定する事もできるし、早計すぎると別の原因を考えたって構わない。──でも、」
 そこで一度、マーモンは不意に言葉を切る。それからふわりと漂って、スクアーロに顔を近づけた。フード越し、赤ん坊の表情は読み取れない。
「早計だと片付けるに及ばない程度には、心当たりはあるようだね」
「……ぺらぺらと、今日は良く喋るじゃねぇか」
 自らの表情の動きを聡く察されて、スクアーロは誤魔化すようにマーモンへと掌を伸ばす。纏うフードだかローブだかの裾を掴もうとしたものの、彼はするりと逃げて指先は中空を薙いだだけだった。
 気にした風もないように、マーモンは続ける。
「まあ、またその夢が進展したら教えてよ。僕も少し興味がある。原因が判明すれば、それを霧の力に応用出来るかもしれないしね」
 曖昧に頷いて、スクアーロは重たい動作で腰を上げた。今日一日の予定が何か入っている訳ではなかったが、このままマーモンの輪廻転生についてを聞く気もない。
 ──否、聞きたくない、と言うべきか。
 今までずっと閉ざされていた筈の扉が、とうとう開いてしまった気がしてならなかった。錆びた錠前の落ちる音さえ聞こえた気がした。
 前世、輪廻、転生、そして今世。振り向かない夢の中の銀髪。
 彼が、もしくは彼女が、早々に振り向いてしまえば良いと、マーモンの部屋を後にしながらスクアーロは思った。その顔が自分と全く違っていれば、ただの悪夢だと斬って捨ててしまえるに違いない。
「……くそ、」
 吐き捨てて、長い廊下をスクアーロは歩く。剣を握りさえすれば──現状、ヴァリアーには武器の一切が与えられていない。フルーツナイフの一握りすらも、である──、こんな靄は晴れてしまうのに。
 ザンザスの声で、心底嫌悪する表情で、役立たずはいらないと罵られれば、こんな鬱々とした気持ちとはきっぱり別れてしまえるのに。


 * * *


 ──スクアーロの意に反して、夢は今宵も訪れた。
 二日連続でこの夢を見るのは初めてで、スクアーロはまず、驚く。それから昨日と変わらぬ崖の上の風景を眺めて、背筋を粟立たせた。今までとは感覚が違うのだ。
 ──良く出来たリアルなジオラマを眺めているような、部外者ではない。
 スクアーロは夢の中で、草を踏み締め崖の上に立つ、自分の姿をはっきりと自覚していた。視界だけがここにあるのではない。夢の中、スクアーロは感覚を持って立っている。
「ッ、」
 冷たいものが頬を伝って、スクアーロは身構えた。いつもと同じ、曇天から雨の雫が滴り始めたようだ。雨は冷たい。どうして冷たいと解る。
 ──だって雨は、スクアーロにも降っている。
「オレは、」
 こんな記憶、知らない。

 早鐘のように心臓が鳴り響いている。この夢から目覚めた時のように。視線がどうしても目の前から離れない──目の前には銀髪が揺れる。自分のではない柔らかな波打つ銀髪が、まるで自分のもののように鋭利な月光を含んで乱反射して揺れている。
 そして今までと決定的に違う瞬間が、スクアーロの視界を灼いた。闇の中、雨降りしきる夜、それは鮮烈な光のように。

 ──銀髪が、ゆっくりと振り返る。

「────……、」
 言葉なき息遣いは相手のものか、それとも自分のものだったのか。それすらもう、わからない。

 知っている。否、知らない筈がない。
 振り向いたのは女だった。躯は針金のように鋭く細い。その眼差しは髪と同じく銀だった。
 女の豊かさなどその表情にはない。ただ雨に打たれて、濡れて、銀色の双眸を瞠って──

 スクアーロと同じ顔が、スクアーロを見つめていた。

 女が唇を開く。月光は彼女の表情を逆側から覆い隠す。造形が瓜二つの顔を見合わせて、スクアーロは一歩を踏み出した。
「過去を、」
 呟いたのは女だっただろうか。スクアーロが踏み出した筈の一歩は踏み締める大地を失い、真っ逆さまに落ちていく。瞠目してももう遅い。スクアーロの躯はいつのまにか、傍観者の位置ではなく当事者の座にあったからだ。

 ──夜毎夢中にて繰り返される昏い海への身投げを、今宵行ったのはスクアーロだった。冷たい冷たい水の底へ、銀の糸が揺れて沈む。