悪食集「マイ・フェア・レディ」より


「あれ? スクアーロじゃん」
 出掛ける為に玄関ホールへ降りて来たベルフェゴールは、そのホールの端をこっそりと目立たないように歩く姿を目敏く見つけ、声高にそう叫んだ。遠目に見てもぶかぶかの、少しアンバランスな黒いコートを着ているが、あの長い銀髪と生白い肌と、纏う鋭利な気配は間違いなくスクアーロだ。
 スクアーロ、と呼ばれた人影は、その声にぎくりと身体を強張らせて立ち止まる。彼はいつものように大股で颯爽と歩いてはおらず、顔を不自然なほど俯かせ、決してそれを上げようとはしなかった。
「遅かったけど何してたんだよ、ボスに早く報告書出せってまた殴られるぜ。つか何、なんかの罰ゲームでもしてんの?」
 不恰好な大きい黒いコートに俯き加減の歩き方は、ベルフェゴールの目には罰ゲームとしか映らなかった。しし、と口端をにんまり吊り上げながら笑い、スクアーロに歩み寄る。
「そんな風に似合わないコート着ちゃったりして。まあ、スクアーロのセンスが壊滅的なのは今に始まった事じゃないけど」
 笑い混じりのベルフェゴールの台詞に、スクアーロは何も言い返さなかった。どころか、視線を向けもしない。いつもならば大概この辺りで怒鳴られるか殴り掛かられるのだけれど、と不思議そうにスクアーロを覗き込もうとして──それくらいの距離まで近付いて、そこで初めて、ベルフェゴールは違和感に気付く。
「──……あ? 背が、」
 その続きを聞く前に、スクアーロは駆け出した。階段を駆け上がって行く彼の後姿は、彼がそうするのを幾度も見た事がある筈なのに、ベルフェゴールには違和感しか残さない。
 ──様子のおかしいスクアーロが去ったその玄関ホールで、ベルフェゴールは頬を掻く。それからひらひらと、自分の頭の上で掌を振った。
「……スクアーロ、背が縮んでた?」
 呟いて、そんな訳ないか、と自答する。とすればさっきのあれは、スクアーロではなかったのだろうか。侵入者であれば、ここまで無傷で、しかも何の警報にも引っ掛からずに来れるという事は在り得ない。
 暫しその場で考えて、結局ベルフェゴールは肩を竦める。
 恐らくこの場に居合わせたのがレヴィ・ア・タンであれば、彼は抱いた不審をなあなあにせず、黒コートを追い掛けて自らの職務に忠実であろうとするだろう。
「ま、いっか」
 けれどこの場に居合わせたベルフェゴールは、とても怠惰だったのだ。