スクアーロは廊下を歩いていた。
 均一に美しく嵌め込まれた窓枠の向こうには、穏やかな初夏の空気が満ちている。陽射しがきらきらと煌めいて、小鳥が飛び回るたびに細い樹の枝が揺れた。
 今日から数日間は久方振りの休日だ。ここの所働き詰めだったから、スクアーロの身体はすっかり草臥れてしまっている。休みの内に元の調子を取り戻してしまわないと、とスクアーロはぼんやり思考した。
 そう言えば、次の任務はいつだったろうか。確か休みに入る前に書類に目を通して確認した筈なのだが、どうにも思い出せない。そもそも休みは今日からだったっけ? 何だか昨日も休んでいたような気がする。
 スクアーロが疑問に思って立ち止まる。思い出そうと眉間に皺を寄せたのだが、その瞬間に酷い頭痛がスクアーロを苛んだ。突発的なそれに、思わず呻いて額を押さえる。
「──……、」
 疲れているのだろうか。今日は考える事を止めて、休んでしまう方が良さそうだ。そうだ、考える事は明日にだって出来る筈だ。
 スクアーロは再び廊下を歩き出す。部屋に戻ったらまず暖かいシャワーを浴びて、それから酒でも飲もうと思った。
 ああでも、甘いものを食べるのでも良いかもしれない。そんな事を考えながら、その銀色の視線をふと横へとずらす。
 窓と窓の合間、花瓶や調度品を据えておくための簡素な台座の上に、カラフルなマカロンが幾つか乗った皿が置いてあった。何て良いタイミングなんだ、とスクアーロがそちらへ手を伸ばす──何の疑問も抱かずに。恐らくこれから部屋に帰れば、備え付けの浴室のバスタブには暖かい湯がなみなみと張られ、テーブルの上には適温のワインとオードブルが用意されているのだろうと思った。
 ──どうして?
「スクアーロ!」
 強い調子で名前を呼ばれて、スクアーロの指先がびくりと震えて強張る。次いで、どっと冷や汗が噴出した。
 この可笑しな状況は何だ。スクアーロの喉が──三十を迎えてもまだ衰えの見えない張り詰めた喉が鳴る。こんな所にマカロンの乗った皿があっていい筈がない。ここにあった花瓶はどうしたと言うのだろう。
「正気を取り戻したかい、スクアーロ」
 声のした方を振り返ると、マーモンを抱いたベルフェゴールがそこに居た。但し、彼はいつものようににやにやと笑ってはいない。唇を一文字に引き締めて、少なくとも楽しそうな雰囲気ではなかった。
 スクアーロを呼び、声を掛けたのはマーモンのようだった。彼はベルフェゴールの腕の中から飛び降りて、スクアーロの足元へと近寄りマカロンの皿の乗った台座を見上げる。
「──取り巻く現象に強い違和感を抱いてくれないと、こちらからの呼び掛けが出来なかったんだよ」
「マーモン、……これは」
 異常事態だ、ということは容易く把握出来たがそれだけだ。スクアーロがマーモンを見下ろして、眉根を寄せて問う。
「試しにその窓を開けて御覧よ」
 マーモンに示された窓を見て、スクアーロが手を伸ばす。錠を外して、防弾ガラスで作られた窓を押し開く──事が、出来なかった。
 この窓は嵌め殺しなどではなかった筈だ。鍵のついた嵌め殺しの窓があって堪るか。スクアーロは若干の焦りを覚えながら、今度は強く窓を押す。立て付けが悪いだけかもしれないと、そんな風に自分を宥めながら。
 けれど結果は同じだ。──窓は開かない。びくともしない。
「外と内が遮断されているんだ。当然正面扉も開かない。なのに内側の誰もがそれに気付かない──と言うより、皆外に出ようとしないんだよ。その上で内部を引っ掻き回されてる」
 呆然としているスクアーロを見上げて、肩を竦めたマーモンが言った。
「……どういう事なんだ、」
 スクアーロの唇から、彼に似合わぬ呟きめいた声が溢れる。
「──つまりさ、面倒な事になってんの」
 口を閉ざしていたベルフェゴールがそう返す。普段ならば茶化すなと怒鳴りつける所であったが、今日ばかりはそうも行かない。スクアーロにだって、これがどういう事態なのかさっぱり解らなかったからだ。
 先程、正気を失っていた自分が手を付けようとしていたマカロンを見遣る。ピンクやクリーム色、若草色のそれらはとても美味しそうだったけれど、どことなく現実感がなかった。
「現時点で僕が把握している事を伝えるよ。会議室に行こう、皆をそこに集めてる」
 ベルフェゴールに抱え上げられながらマーモンが言った。曖昧に頷いて、歩き出す彼らについてスクアーロも歩き出す。
 異様な空間の中に身を置いている所為かもしれなかったが、何だか胸騒ぎがして仕様がなかった。スクアーロの第六巻が、全力で何かを訴えかけているような気がしてならない。
 歩きながら、右手でぎゅうっと自らの左胸を押さえつける。
 薬指に嵌まる指輪の存在感が、ほんの僅かだけ異質だった。