「──……あぁ?」
 機嫌が悪そうに低められたザンザスの声が、ホテルの室内に転がり落ちる。
『だから、申し訳ないとは思うんですけど。緊急で任務をこなしてくれないかな、って』
 真夜中に近い時間帯、最上階のスイートルームはとても静かだ。それ故にザンザスの携帯電話から漏れ聞こえてくる音声は割合しっかりと聞き取れて、だからスクアーロはベッドに横たわりながら耳を欹てていた。
「ヴァリアーは何でも屋じゃねえよ。暗殺部隊だって何度言えば解るんだ、てめえは。そういうのはそっちの守護者にでも、」
『その守護者が全員出払ってるんだから困ってるんです。そっちにオレ達が良く思われていないのだって知ってるし、それに嫌がらせみたいに仕事押し付けたりしませんよ』
 ザンザスの苛立つ声音に続いて、ノイズ混じりの綱吉の声がスクアーロの耳に届いた。くたびれた笑い方で喉を鳴らすのを聞く。確かにレヴィ・ア・タンあたりは、毎回本家から命令の類が来る度に喚いていたなとスクアーロは思い出した。
『ついでに言うと、今回の任務はフランスで行って貰う事になりそうなんで。だからヴァリアーに白羽の矢が立った訳です』
 綱吉の声が続いた。

 ──フランス・パリ。シャンゼリゼ通りの傍らに聳えるクラシカルなホテルの最上階、スイートルームが現在のザンザスとスクアーロ、引いてはヴァリアー幹部面子の居場所だった。
 偶には羽根を休めたいわね、なんてルッスーリアの何気ない一言に、何を思ったかザンザスが動いた。秋も深まってきた十一月頭、呼ばれても滅多に足を向けないボンゴレ本部へ出向いたかと思えば、ザンザスはクリスマス休暇をたっぷり二週間もぎ取って帰って来たのだ。
「フランスでクリスマス・バカンスだ」
 仏頂面であのザンザスがそんな事を言うのだから、スクアーロは開いた口が暫く塞がらなかった。何せ、十年以上を共に過ごしてほぼ初めて聞いた台詞だったからだ。思い出して緩く笑う。
 兎角、そうしてヴァリアーの初めてのクリスマス・バカンスが決定した。休みなんて言われなければ取らないようなザンザスが、ルッスーリアの呟きめいた一言でああも能動的に動いた理由は、こうしてバカンス──綱吉の電話により、それは今や風前の灯火のようなものだったが──に来ている今でも、スクアーロには解らないままだったが。

 綱吉の声に考えるような長い沈黙を挟んだ後、ザンザスが最後の切り札のように唇を薄く開く。
「……クリスマス休暇として申請して、本家から認可も下りた筈なんだが。クリスマスに仕事をさせる気か?」
『任務最優先です。日本にクリスマス休暇っていう概念はないし、だったらニューイヤー休暇って言っても駄目ですからね。年末年始働き通しとか日本じゃ良くある事ですので』
 ぴしゃりと言い切られていた。ザンザスの不機嫌さが増した事を、重苦しくなった空気が伝えてくる。
何となく居辛くて、スクアーロはブランケットを引き摺り上げた。つい数十分前に一戦終わったばかりだと言うのに、不機嫌解消の為のもう一戦は御免被りたい。三十になって、スクアーロはセックスが体力を恐ろしく消耗する行為だという事に漸く気付いた。
「──やりゃあ良いんだろう、やりゃあ」
『引き受けてくれて有難う御座います、ザンザス』
 投げ出すようにザンザスが折れると、微かに笑うような吐息と共に、矢張りノイズ混じりの声が電話口の向こうで綻んだ。
「任務の詳細は」
 ベッドのヘッドボードに背中を預け、柔らかな枕に腰を預けているザンザスの手がひらりと揺れる。スクアーロは迷う事なく呼ばれたのだと理解して、彼の傍らへと懐いた。
 ザンザスの指先が、猫にするようにして喉下を擽る。心地良さに、スクアーロはとろりと双眸を細めた。
『機密が入った匣が、フランスマフィア所属と思しき数名に奪われました。今回の任務はその奪還です』
 折り目正しく任務の内容を伝える綱吉の声を聞きながら、スクアーロはザンザスの指先に惑わされる。
 喉下を擽っていた手が離れ、指先が唇のラインをなぞってゆく。浅くその合わせを爪先で割られれば、その悪戯なザンザスの指先を淡く噛んだ。
 スクアーロで遊びながら、ザンザスは尚も淡々と続ける。
「機密ってえのは何だ。……それだけで良くフランスマフィアだと知れたな」
『新しい匣兵器の設計図です。ボンゴレ本部へ護送されている最中でした。……イタリア以外のヨーロッパ圏のマフィアは、大体どこもイタリアンマフィアの匣技術を欲しがってますし。それに護送していた者が、匣を奪われた際にメルシ、と言われたそうです。照らし合わせてフランスだろうと。でも、決定的でしょう』
「……何て間抜けなマフィアだ、」
 ザンザスが嘲笑する。
 自分達を特定出来るようなものは、絶対に残さないのが基本だ。特に、重要なものを奪取する作戦などでは。
 メルシ、フランス語で『ありがとう』だ。ふざけたマフィアもいたものだと、スクアーロも同じく笑う。作戦が巧く行って気が緩んだか、若しくは格好つけて有難うだなんて捨て台詞を残してみたかったのか。
『更に間抜けな事に、匣に取り付けられていた発信機能に気付いてないみたいです。一応重要なものですから、オレ達だって警戒してたんですよ? ……と言う訳で移動ルートが筒抜けだから、今こっちで目的地を割り出し中。それからヴァリアー隊員を幾人か見繕って、そちらで合流出来るように手配しておきました。今パリですよね?』
 手際の良さに、恐らくこちらに断らせる気は最初から無かったのだとザンザスは気付いた。
 十年近く前に拳を交えた時には、マフィアから一番遠そうな風体だったのに──薄らと口端を吊り上げて、ザンザスは苦く笑う。
「ああ、パリのホテルだ。どうせそのホテルもてめえらに筒抜けなんだろう。言わなくても良いな」
『ええ、構いませんよ。明日の朝にはそちらに到着すると思いますし、……その時間には目的地の洗い出しも済んでいるでしょう。また朝に連絡します。それじゃ、お休みなさい』
 ザンザスが低い声でいらえると、ぷつりと電話は切れた。
 無機質な音ばかりが零れ落ちるようになった携帯電話を耳元から外し、そのまま片手でぱたんと閉じる。スリムな黒い携帯電話は、ザンザスの手中にすっぽりと収まった。
「……聞いてたか、カス」
「勿論」
 主にボンゴレファミリー内での遣り取りに用いるその携帯電話を、ベッドサイドのチェスト上へ放り出す。上半身をヘッドボードへ凭せ掛けたままのザンザスの傍らで、スクアーロはブランケットに包まりながら頷いた。喉下や首筋を撫でていた手が遠ざかり、それだけに不服そうな色を含めた視線をやる。
「──日本人にはバカンスっていう考え方がねえのは知っていたが、……まさかクリスマスまで潰れるとはな。オペラ・ガルニエもヴェルサイユも、モン・サン=ミッシェルも全部お預けだ」
「でも大した任務じゃなさそうだぜぇ、ボス。すぐに終わらせればパリの周辺くらいは回れるだろ。流石に西海岸はキツそうだがなぁ」
 スクアーロの言葉に溜息を一つ吐いて、ザンザスもブランケットに潜り込んだ。当然のように抱き寄せられて、当然だからそれを自然と受け入れる。首筋に鼻先を摺り寄せれば、ザンザスの香りがスクアーロを包み込んだ。
「……う゛ぉい、ザンザス」
「何だ」
 馴染む肌の感触にまどろみながら、夢現にスクアーロが囁いた。
「何でいきなりバカンスとか言い出したんだぁ? いつもだったら、下らねぇって一蹴して終わりじゃねぇか」
「……てめえまでオレに休暇を取るなと言うつもりか?」
 人肌とブランケットの暖かさに包まれて、心地良くとろけながらのスクアーロの問い掛けに、ザンザスの機嫌が少し曲がった。不機嫌そうな調子で拗ねたように呟かれ、スクアーロが慌てて顔を上げる。
「や、そうじゃなくて。今回の切っ掛けとか、ルッスの独り言じゃねぇか。普段だったら、レヴィやオレから言われねぇと休もうともしねぇし。……だから自発的にバカンスとか言い出して、オレは結構安心してんだぜぇ?」
 口や表情には出さないが、ザンザスだって人の子だ。働き続ければ疲れる。疲労の色濃くなった顔色を真面目に心配され、彼は数ヶ月に一度はスクアーロやレヴィ・ア・タンによって強制的に休暇を取らされていた。
 そんなザンザスだからこそ今回、クリスマス・バカンスを自分から言い出した事に対してスクアーロはとても安堵していた。休息する事を忘れているのではなかろうかと真剣に考えた事もあったが、杞憂だったのだと思えたからだ。
 緩く笑って囁くスクアーロに、ザンザスが決まり悪げに視線を彷徨わせる。
「いや、今回は……、」
「──……? 今回は?」
 浅く首を傾げてスクアーロが問い返す。言おうか言うべきか途轍もなく悩むような素振りを見せた後、ザンザスは観念したように掌で口許を覆った。その向こうで、唇が動く。
「……てめえに休暇をやろうと思ったんだ、」
 不明瞭な発音だったが、スクアーロの聴覚はとても正確にそれを聞き取った。だが疑った事のない自分の五感を、この時ばかりはスクアーロも疑わざるを得なかった。
 てめえに。休暇。頭の中で言葉を噛み砕いて、漸くスクアーロは理解する。
 ──スクアーロの為の二週間。
「へ、」
 理解して、思わず変な声が出た。気まずげだったザンザスの視線が鋭さを一息で取り戻し、伸ばした指先でがっしりと頭を掴まれる。強靭な指先から繰り出されるクローを喰らって、スクアーロは抗議するようにザンザスの胸板を叩いた。
「ちょ、痛ぇ! オレ何もしてねぇだろぉ!」
「笑ったろうが!」
「笑ってねぇよこのクソボス! ッ、ありがとうぐらい言わせろぉ!!」
 色気の無いベッド上のバトルへ発展しそうだったその行為は、スクアーロの吠えるような一言でぴたりと止んだ。
 ありがとう、という単語にザンザスの緋色の双眸が驚いたように見開かれる。同時に緩んだ指先を抜け出して、スクアーロはお互いの身体を密着させた。シーツの波間で、ぎゅう、と腕を絡める。掠めるように唇を奪って、至近距離でもう一度囁く。今度はその緋色を、真正面から見つめながら。
「──グラーツィエ、」
 ありがとう。囁いた言葉は甘く、そして芯を持って紡がれた。
 恐らくザンザスなりのクリスマス・プレゼントだったのだろう。この休暇も、パリへのバカンスも。そうでないとザンザスが言い張ったとしても、スクアーロはそうであると思い込もうと決めた。だってザンザスがこのような形でスクアーロを労わってくれるのは、ほぼ初めての事だったからだ。
「──浮かれすぎだ、スクアーロ」
 抱き締め返される腕の力は強かった。唇を塞がれて、性急な指が肌の上を這い始める。
 それだけで勝手に燃え上がり始める身体に、スクアーロは柔い酩酊感を覚えながら淡く啼いた。

 ──翌朝に訪れるのだろう、死にそうな気だるさなど知った事か。
 抱き合わずにいたら、このまま胸の中の溢れ返った愛しさの中で溺れてしまいそうだとスクアーロは思った。