今、特に思い出さなければいけない理由は見当たらなかった。
 言い訳が欲しかったんだろうと思う。手を伸ばして、その身体を強く引く。項垂れて顔を伏せている所為で晒されている生白い首筋を、覆う様に顔を寄せた。鼻先に僅か、甘いものが薫る。そう、「思い出してしまったからしょうがない」。
 試合に関係せず触れる部分がそれしか見つからなかっただなんて、自覚すらも危うい。



「一応、モデルっスからね。焼けないんスよ」
 黄瀬は笑って箸を振り回す。昼飯時だった。
 風通しの良い体育館の裏手で囲む昼食に、バスケ部のレギュラー面子が全員顔を揃えるという事はあまり無い。クラスが全員一緒という訳でもなかったし、そも、そこまで全員が仲良しな訳でもない。だから今日ここで昼を食べているのは黄瀬と桃井、それから桃井に引っ張られてきた青峰の三人だった。
「それじゃあ、日傘とか持ち歩くの?」
 桃井が興味津々と云った風情で首を傾ぐ。いやそこまでは、と黄瀬は笑い返して残っていたミニトマトを摘み、ぽいと口に放り込んだ。
 いつも木陰で食べているし、屋外に移動するときはフード付きのパーカーやタオルを使っていたから、焼かないのそれとも焼きたくないの、と桃井が突っ込んだのはつい数分前になる。声につられて青峰が顔を上げたのは、手元のコーヒー牛乳を飲み切って手持ち無沙汰になった所為もあった。
「日傘とか持ち歩くのは女優さんとか女の子のモデルとか、あー、堀北マイちゃんだったっけ?あの子も普段はがっちりガードで厚着系らしいスよ」
 青峰の視線に気付いた黄瀬が、ご贔屓のグラビアアイドルの名前を挙げる。
「へえ」
「青峰っちったら生返事!なんっスか、やっぱ着てるより脱いでる方が良いんスか?」
 やだあ青峰くんたら、と桃井も加わってきゃらきゃらふたり分の笑い声が弾ける。うぜえ、と顔を顰める青峰もそっちのけで、二人の話し声の賑やかさは天井知らずだった。
「えーじゃあ、バスケ選んだのもインドアスポーツだから?」
「や、それは……多分バスケが外でやるスポーツでも、俺入部してたと思うっスよ」
 ちら、と黄瀬の視線が青峰を捉える。
 ふうん?と桃井は可愛らしく小首を傾げただけで、じゃあじゃあ、と話題を途切らせる事はない。彼女の可愛らしい小さなサイズの弁当は、とっくに中身がからっぽになっている。お喋りを留めるものは、もう少し先の予鈴しか無かった。
「オススメの日焼け止めとかある?今使ってるの、あんまり気に入ってなくて」
「勿論っスよー!ええとね、今使ってるのがすっげ良い香りなんだけどちゃんと防いでくれてー、」
 あそこのは試した、アレは誇大宣伝すぎる、等々喧しい黄瀬と桃井の会話に青峰は半眼になる。正直メーカーの名前とかマジ呪文だった。なんだえすぴーえふって。新手の戦闘機か。
 ただ、黄瀬が「オススメ」と称するその日焼け止めの説明に、ふと青峰が瞬いた。独特の匂いがなくって凄く良いマリンノートで、と黄瀬は青峰の仕草に気付かず笑いながら説明を続けている。
「あれ、マリンノートっつうの?」
「え?」
 唐突に割って入る青峰の声に、黄瀬が淡く瞠目する。
「お前、帰る前にいっつも甘い馨させてるだろ。アレ」
 合点したらしい黄瀬がああ、と頷いた。
「着替える時に付け直すっスから。うん、あれがそうスよ、良い香りでしょ?」
「や、別に」
 ただあの甘い馨の名前とマリンノートという単語が結びついた事が、自分の中で意外だっただけだ。すげなく首を振る青峰に、聞いといてそれ酷いっス、と黄瀬が笑った。



「──焼けたら困るんだろ」
「なん、」
 何か言い出される前に先手を取ったのは青峰だった。引き寄せられて眼を白黒させていた黄瀬の焦点が、漸く青峰を得て結ばれる。紫外線を防ぐという点では隙の多いユニフォームの裾から伸びた手足や首は、鍛えられた体格とはミスマッチに白い。
「良いから、黙っとけ」
 我ながら陳腐な言い訳だと思う。同程度の体格の青峰では、黄瀬ひとりを捉えるほどの影など到底作り出せはしない。ましてつい先程試合で打ち負かした相手にするには、些か欠けているものが多すぎる気がした。気配り、優しさ、思い遣り、配慮。然し数え上げてみても青峰には当初から欠けているものばかりで、だからやっぱりこれで良いと思う。
 大人しくなった黄瀬の首筋を、鼻先で掻き分ける。染めた髪の生え際から、耳の裏から、薄く漂う甘い香りに青峰の双眸が眇められた。
「……マリンノート、まだ使ってたのか、黄瀬」
 零された低い呟きに、僅かに黄瀬の両肩が揺れて笑う気配がする。伏せられた顔から滴り落ちた雫が粒を成した汗なのか、それとも別の何かだったのかはわからない。ただアスファルトに黒い染みを幾つも幾つも作って、真夏の容赦ない陽光でも乾かす暇がないほど、粒はそれを重ねて斑を広げてゆく。
「くっだらない事、覚えてるっスね、青峰っち。てえか、これ、なんスか……」
 抱き寄せられている状況にどう対応すれば良いかわからなくて、困った様な声色で黄瀬が弱々零す。
 憧憬をやっと超えた先で、けれど敵わなかった相手に縋る両腕など、黄瀬にはなかった。縋る両腕も無かったし、だからと云って青峰を突き放す勇気も矢張り、無い。
「焼けたら困るんだろ」
 飄々と青峰が嘯く。真っ赤な言い訳を携えて、それ以上黄瀬に踏み込む度胸も甘やかす意思もなく、ただ体温を共有している。

 名残の蝉が盛大に鳴いていた。マリンノートは鼻先に甘えて青峰の意識を離さない。




(12/08/30)