※11/02/13発行「花盗人賛歌」の後日談※



 部屋の後始末だとか汚れた着物の代わりを貸して貰ったりだとか、そんな事をしているうちにすっかり朝になって屋敷の人間が起き出し、結局幸村は朝餉を出して貰った上に、沸かしたばかりの一番風呂まで頂いてしまった。
 着物は染みが付いているから捨てておく、と政宗に言われた時に、幸村は本当に消え入りたくなった。
 着物が惜しい訳ではない。元より町中に馴染む為に、わざと傷めたものだ。見られて恥ずかしい類の染みを付けた着物の末路を、よりによって政宗から聞かされた事が何よりも恥ずかしかった。
 頬を朱色に染めた幸村が、まごまごと口許を蟠らせる。
「そ、それは、大変お手数お掛け致しまして……」
「マジでな。おら、とっとと帰れ」
 昇り切った陽射しが、ぬくぬくと辺りの景色を煌めかせていた。春先、空気は冷えているのにそれだけ暖かい。草履が土を噛むたび舞い上がる埃の粒一つ一つが、陽射しを弾いて眩むほどまばゆい。
 開かれた門の前で、手綱を引く幸村はそうすげなく言われても尚、名残り惜しく政宗を見遣った。
 たった一夜限り重ねた身体は、朝を迎えてとうに経つというのにまだ燻っている。お互い重く大切なものを背負う身であれば、次はいつこうやって、鋼を挟まず穏やかに逢えるのかすら解らない。
 名残りは尽きぬと、今暫くの安穏をと、縋る事をしなかったのは弁える分別を違えなかったからだ。そう、分別を違えずこうやって帰り支度を整え、後は馬を引いて門を潜るだけだというのに、幸村の足はみっともなく鉛のように重たい。
「──行けよ。忍びが待ってンだろ、どうせ」
 じっと、此方を見つめて動こうとしない幸村の姿に、政宗が呆れたように溜息を零して顎先で門を指し示す。腰が怠ぃから座りてェんだけど、と付け加えられた科白に、幸村はまた申し訳なくなって顔を下げた。
 が、そう間を置かずに再び視線が政宗を射る。先程までの熱に潤んだようなそれでなく、戦場で相対するときのそれに似た幸村の瞳のいろに、政宗は片眼をついと眇めた。
「奥州の春は、これからであろうか」
 真摯な眼差しで向けられた言葉に、拍子抜けして政宗が瞬く。
「……ああ、そうだ。これから芽吹いて、雪が融けて、漸く桜が咲く。梅は先駆けに過ぎねえ」
 頷きながら返されるそれに、幸村は愛しげに双眸を狭めて遠くを見遣った。投げられる視線の先には、松の木に隠れてあの臥龍梅が植わる小さな庭がある筈だ。
 二人の間には、数歩分の距離が開いている。それを埋めようとはせずに、幸村は囁いた。
「このまま上田へ帰れば、今年の奥州の春は見られますまい」
 気軽に引き返してこれる道程でも、身分でもない。上田城では幸村の帰参を今か今かと重臣達が待ち構えているに相違無い。幸村の声を遮ることなく、政宗は黙ってそれを聞いている。
「────また、」
 すう、と短く息を吸い込んだ幸村が、或いは何かを解くように言葉を結ぶ。
「……また、この春を見に来ても構いませぬか。今度は貴殿と共に、桜を拝見致したい」
 颯々と、風が吹く。舞い上がる雪はなく、その代わりに仄かな梅の香りがした。盛る春こそまだ先であれど、その前兆は確かにもう、この北国を駆け回っているのだ。
 袴の裾が俄に孕んで、ふわりと膨れる。乱れた髪を片手で乱雑に押さえつけながら、一瞬の無言の後、政宗は口許を笑う形で歪めてみせた。
「Ha!酔狂者め。……来年に、俺がアンタを桜の名所に案内してやる道理が存在していると思ってンのか?」
 ほんとうに、あの夜限りになってしまうとも限らないのだ。情を繋ぐのはこれきりと、どちらかが言い出せばそれで仕舞いの儚い関係を、政宗は哂ってそう告げた。
 剣呑ささえ含むその返答に、けれど幸村は暢々と瞬く。
「確かに、間があいては冷めるものも在りましょうな」
 少しだけ俯きながら紡がれたその声に、政宗は喉を鳴らして見下すように顔を上げた。
「だろ?世迷言なんざほざいてねェで、とっとと──」
「ならば、」
 帰れ、と促そうとした科白を遮られて、政宗は片眉を跳ね上げる。幸村は穏やかに微笑んで、その尻尾髪と赤い鉢巻をひらひらと春風に揺らしていた。
「ならば、文をお送り致しましょう。旅程が順調であれば、帰った際にはまだ上田に桜の枝が花を咲かせて残っておりまする。一枝二枝文に添え、奥州の春より一足先に、上田の春をお届け致す」
 我が忍隊は優秀ゆえ、花を落とさず必ずお届け致そう──だなんて、笑ったままで幸村は言った。
 ぽかんと口を開ける政宗を尻目に、幸村が更に言い募る。
「夏には瑞々しい若葉を数枚。秋には林檎を。冬には蕎麦でも。どれも上田で頃合で御座る。そうして文を送りますゆえ、次の春までこの幸村を、どうかお忘れなさいますな」
 上田の季節を文に添えて、ひととせの移り変わりを幸村が手紙で報せると云う。次の春までそうやって季節を数えて、春と共に幸村は再びこの地を踏むと云う。その隣に、政宗が来ると信じて。
 馬鹿馬鹿しい、と政宗は屈託無く楽しげに笑った。
「──そうまでして、また来年この地へ来て、アンタは桜を見るだけで良いのか?」
 馬鹿馬鹿しいけれど、付き合ってやっても良いと思う。こいつからの便りで季節を知るのもきっと悪くはない。瞬く幸村を見返して、穏やかに政宗はそう問うた。
 良いのかと、そう尋ねられた幸村はややあってから、眦を染めて唇を開く。
「お許し頂けるのならば、手合わせを、」
 頬を染めて返された科白に、今度は政宗が瞬いた。
「俺ァ別に良いが、アンタ大丈夫なのか。殺したくないとかまたほざきやがったら、今度こそ縁切るぞ」
 過日の決闘の際、「殺したくない」と幸村が零して政宗が激昂した事は記憶に新しい。然しその言葉がなければ今こうやって朝帰りの幸村を見送る事だって無かった訳で、そう考えると何となく不思議だった。
 問うた政宗に、幸村が雪がれたような眼差しを向ける。
「殺したくない、と思う気持ちはいつまでも消えませぬ。愛しさを覚えてしまえば尚のこと。けれど貴殿と、全身全霊を賭して戦いたいと思うこともまた消えぬのです。ですから政宗殿、死なないで下され!」
「……あァ?」
 死なないで下され、と力強く言われて政宗は眉間に深い皺を刻む。幸村は笑った。
「某が全力を出して闘っても死なぬよう、ずっと闘い続ける事が叶うよう。お強く在って下され、政宗殿」
 その科白に、政宗の額に青筋が浮かぶ。まるでこの独眼竜が、幸村よりも弱いような言い分である。
「てめ、おちょくってンのか。アンタが全力出そうが出すまいが俺は死なねェし、元々強ェんだよStupid!アンタこそ、全力の俺に殺されねェようにせいぜいその腕、磨くこったな!」
 下品な仕草で政宗が中指を立て、異国語交じりの罵声を幸村へ浴びせた。戦場と変わらぬ気迫に、幸村は瞬いてから満足そうに浅く頷く。
「──次にお逢い致す日まで、技を磨いて参ります」
「そうしろ。俺の六爪はそうそう簡単に抜いてやらねえぜ」
 お互いがお互いを殺すべく、或いは殺されぬべく。季節が巡り機会が訪れるまで、巡る季節を手紙で数えながら自らを鍛えるのだ。
 お世話に成り申した、と幸村が深く頭を下げる。その手が馬の鞍に掛かり、脚が鐙を踏む。幸村が身軽に馬に跨ると、葦毛の馬が鬣を振るった。

 身体に燻る、幸村によって植え付けられた火はまだ消えそうにない。気怠く腰を摩って、政宗は馬の蹄が巻き起こした土埃が静まるのを見届けてから、踵を返す。
 否、その火はもう二度と消える事はないのだと、政宗はまだ知らない。幸村に棲みついた雷もまた、もう二度と消える事がないのと同じように。
 痛みと焦がれは愛に近い形で昇華して、けれど二人がそれに気付くのにはきっと、この先の長い時間が必要になるだろう。
 花盗人の帰り路はそうそう易いものではない。そも、帰り路ではなく一方通行の往き路なのだと気付くものもまた、居なかった。

(11/04/24)