「後藤屋の者が御目通りを願っておりますが」
 襖の向こう、控えめに聞こえてきた声に幸村は恐縮した。
 後藤屋とは米沢城下随一の呉服問屋だ。城下を通った際、何度かその大店の羽振りの良さを遠目に見たことがある。きっと伊達家とも縁の深い店なのだろう。
 馴染みの呉服屋ということは、約束もなしに飛び込んでくるとは思えない。そも、今日は幸村が取り決めもなしに飛び込んできてしまった方である。
 ここは早々に辞すのが礼儀と、幸村は話を切り上げて平伏した。
 が、後藤屋の者が目通りを願う当人であり、約束もなしに飛び込んできた幸村の話に付き合っていたその人である政宗はにやりと笑って、居て良い、と仰せなのだった。


「これは?」
「良くお似合いに御座る!」
「Bull Shit!てめえさっきからそればっかじゃねぇか!」
 合わせていた反物をぽいと不機嫌そのままに放り投げると、呉服商人が慌ててそれを受け止める。投げ捨てた政宗は気にもせず、次、とそのまま低い声で言い捨てた。

 新しく裃を仕立てるに当たって、この何が似合わないだの何が似合うだのと口を出す係の常は、他でもない右目だった。奥州の歳若い国主が矢張り若輩と侮られぬよう、彼はいつも流行や季節をきちんと踏まえた上で、見事に政宗の好む色と柄を選び出す。
 今日はその役目をたまたま居合わせた幸村に押し付けてみたのだが、これがまた酷い間違いだったと政宗は辟易していた。何せこの赤い男、政宗が何を合わせても似合うとしか言わないのである。
 幸村に着物の流行り廃りや美的感覚を求める気などさらさら無いし、寧ろそれをからかって遊んでやろうという気ではあったのだが、余りに一本調子過ぎて愉しくない。
「それでは、こちらは」
 疲れたような表情の商人は、それでも根性強く笑顔を浮かべて政宗の「次」に応じてみせる。恭しい手付きで広げられた反物は、目にもあやな瑠璃紺だった。その見事な染め様に感嘆を零した政宗の機嫌は、それで漸く上向きになったようだ。
 罵られて縮こまっていた幸村に向き直り、自分の肩に伸ばした反物を引っ掛けて政宗は視線を流す。どうだ、とその唇が問うのに合わせて、幸村は数度瞬いてから微笑んだ。
「嗚呼──まっこと、良くお似合いに御座る」
「てめえまた、」
 それでも同じ文句が出てきたものだから、一瞬にして政宗の眉が吊り上げられる。だん、と座る姿勢から一歩足を踏み出した政宗に、反物を駄目にされては堪らぬと商人が慌てた。けれど当の幸村はにこにこと、穏やかに笑ったまま続きを次ぐ。
「某、政宗殿は何をお召しになってもお似合いになると思っておりますゆえ。けれど矢張り、殊更に青が良くお似合いになられる。戦場ではいつも、何がしかの青を見かける度に貴殿の陣羽織の鮮やかな青を思い出してしまうほど」
 にこにこと柔らかな笑顔で、それはそれは大層嬉しげに他でもない幸村からそう言われて、政宗は片足を踏み出したままの態勢で思わず固まってしまった。それからそっと足を組み直し、腰を落ち着けて独眼を瞬かせる。気の休まらない呉服商人だけが、その筋の最高級品である反物の心配をして気を揉んでいた。
「──後藤屋」
「は、はっ」
 低い声で呼ばれて、商人は居住まいを正す。
 政宗は羽織っていた反物を丁寧な手付きで元のように巻き直し、それをぐい、と彼へ押し付けた。背けたその頬はほんのりと赤みが垣間見え、それを見届けて幸村はまた嬉しげに微笑む。
 その笑顔に気づかない振りをしながら、政宗は低く商人に命じた。
「これで、頼む」
「畏まりまして」
 謙って反物を受け取り、商人はそれをいそいそと仕舞う。大口の仕立てが入って破顔している彼に、ふと思い付いたように政宗は視線を向けた。
「それと、もう一つ頼めるか」
 問われて、商人は一も二もなく頷いて見せる。
「何なりと」
「Okey-dokey. ──幸村、」
 名前を呼ばれて、幸村が居住まいを正す。唐突に呼ばわれ瞬く彼に、政宗は頬の赤みも何処へやら、いつもの調子をすっかり取り戻して煙管を咥えて見せた。吸口の褪せた金を噛む唇が笑う。
「他人の青で俺を思い出すなんざ腹が立つ。思い出すなら、俺の青で思い出しやがれ」



「で、これがその瑠璃紺だっての?」
 幸村宛に唐突に届いた包みを解き、その中身をとっくり見つめながら佐助は呟いた。佐助の手中にある畳紙に大事そうに包まれているのは、かの瑠璃紺で仕立てられた髪帯である。
 お八つの黄身餡を包んだ餅を頬張りながら、幸せそうに幸村は頷いた。
「髪帯ならば常に身につけていられるから、と。態々俺の為に仕立てて下さったのだ!」
「……あ、そ」
 何だか犬の首輪みたいだよねえという言葉を呑みこんで、佐助は髪帯を広げてみせる。佐助の手で触れるには及び腰になってしまうほど上等な瑠璃紺には、更に青々とした絹糸で刺繍が施されていた。その柄を見て、佐助は半眼になってそっと畳紙に仕舞い戻す。
「ああ、飼い主の名前入りなわけね……」
 呟く言葉はお八つに夢中の幸村には気付かれない。早速それで結ってくれ、と喚く主人をはいはいといなしながら、佐助はひょいと腰を上げた。

 畳紙の中、瑠璃紺の帯には青糸の刺繍で竜が昇る。雷鳴の中を躍る昇竜図は片目だった。

(10/12/08)