「花盗人賛歌」サンプル

 奥州の冬は深い。
 降り積むばかりで止まぬ雪は視界の端まで真白に染めて、音なく深々と層を為す。その一番下では根雪の下に確かに春の匂いが潜んでいるのだが、雪をかく内にまた新たな雪が降り来るこの地では、雪解けの時期までそれを窺い知ることは叶わない。
 墨を含んだ馬毛の筆が、紙面を滑る音が聞こえるほどの静寂である。文机の傍で灼々と燃える火桶の中身が、ぱちんとひときわ甲高く叫んで噴き上げた。

 万事恙無く、とは無論言えなかったが、雪と冬が深まるにつれて諸々は収束していった。何れ鎮圧されて実を結ばぬ一揆を企てるよりも、雪国の人間は目前に控える越冬を優先したに過ぎなかったのだろう。それでも国内で政宗が腰を上げなければいけないほどの有事はなくなり、先の関ヶ原で疲弊していた軍の再編にも漸く着手する事が出来た。
 書き付ける手紙は家康に宛ててのものだ。他愛ない挨拶や近況報告、雪が溶けたらそちらを訪ねたい旨などを気儘に連ねて、洒落た南蛮渡来の金品を包んで献上する。
 手紙の最後に花押を入れた所で、廊下の向こうから足音が聞こえて政宗は筆を置いた。大柄の影が障子に黒い絵を浮かべ、恭しく膝を突いて尋ねる。
「そろそろご一服なさる頃かと」
 頃合いなど彼には──小十郎にはお見通しのようだった。文机から離れ火桶の傍ににじり、螺鈿の煙草盆から愛用の煙管を取り上げながら政宗はいらえる。
「Just Timing! 丁度書き終わった所だ」
「それはよう御座いました」
 笑みを滲ませた柔和な声と共に、障子が引かれて小十郎が一礼する。茶器を載せた飴色の盆を品良く小十郎が室内に持ち込むのを尻目に、開いた障子戸の隙間から見遣る庭の景色に政宗が囁く。
「──蕾はまだか」
 独り言めいた問いに、小十郎は何の事かと背後を振り返ってから得心する。雪をこんもり被った梅の古木が、寒々と晴れた冬空の下で佇んでいる。枯れ枝が白く化粧を得るこの景観も美しいものの一つだが、滲むような紅を乗せて咲く花を主が殊の外気に入っているのは、小十郎も知っていた。
 これ以上暖めた空気が逃げぬ内にと戸を引いてから、ふるりと一度首を横に振る。
「萠しはありますが、まだ。それでも例年よりは、少し早めに見ることが出来そうで」
「そっか」
 春は遠い。解り切っている事だから音には並べず、相槌だけ打って蒔絵の麗しい青い羅宇の先、細かな彫刻が施された金の雁首火皿へ煙草を詰める。火を浚えば、独特の馨が部屋を泳いだ。
「なら、花盗人が出るのはもう少し先だな」
 密かに笑う気配を交えて政宗が揶揄混じりにそう言うと、しかめ面をして小十郎は主を仰ぎ見る。
「今年もまた罰さぬと申されるのですか」
「Yes! 花盗人は罪にならねえって言うじゃねえか」
 政宗の部屋に面した庭先の、古木の梅の花盛りは見事なものだと城内では専らの評判である。毎年春先には満開の前後、魔が差した誰かが一枝二枝、手折って持って行ってしまうのだ。
 お陰で散り際には少しばかり寂しい。それでも毎年時期がくれば梅は新しい枝を伸ばして花を付けるから、すっかり城内での風物詩のようになってしまっている。
 華人と呼ばれた俺の城に相応しいと政宗は笑っていたのだが、花とは申せ主人の物に手を出すなど言語道断と、この右目はそれが看過出来ないらしい。毎年梅の見張りをすると申し出ては、面白いから放っとけと諌められていた。
「花盗人が罰されぬは典雅な狂言の世界のみ。例え花の一枝とて、主人のものに手を付けるなどあるまじき事に御座います」
「今年もその押し問答すんのかよ。まあ良い、春はまだもうちっと先だ」
 煙管を揺らして政宗は目を細める。城内では政宗の庭の梅を持ち帰れば恋が成就するだの一騎当千の強者になれるだの、奇妙な願掛けまで流行っている事を訴えたかった小十郎だったが、当面の自分の役目を思い出して気を切り替える。
 政宗の前に、小十郎の手で供されるのは煎茶である。曇りのない匂やかな萌黄色のそれは、真白い陶磁に注がれていた。
「今回は、徳川殿に何を贈られるので?」
 口調を改めた小十郎に問われて、政宗は吸口を唇に寄せながらにいと笑う。得意気なその顔のまま返した。
「金の杯。あっちじゃなんつったっけな、Gobletだったかな。ド派手で金綺羅でImpact抜群でよ」
「あちらも、さぞ驚かれる事で御座いましょうな」
「Of course!」
 くつくつと喉奥で笑い声を噛み殺して、政宗は吸口を噛んだ。すうと一息吸い込んで、薄い唇からふわりと零す。漂う煙管の燻す馨はそれでも上品で、小十郎はこれを嫌いではない。
 徳川にまめに手紙を書き、由緒ある品を献上するのには意味がある。東軍総大将と伊達の繋がりが強いことを外部に示し、入手困難な珍品を此れ見よがしに贈る事で政宗の実力を示してみせる。尤も後者に至っては、権力誇示と言うより政宗の自慢したがりの方が前に出ているのではあるが。
 寛ぐ政宗の傍らで、小十郎が文机から書き上がった手紙をそっと拾い上げる。墨が乾いているのを確かめてから大事そうに巻き、懐へ納めた。包んだ献上品に添えてこの手紙を添えて、使者を揃えて送り出す大事な仕事がまだ残っている。
 畳に拳を突き、低頭して小十郎は部屋を辞そうとする。
「器は後ほど侍女に下げに来させますゆえ。使者の手配をして参りますれば、」
「小十郎」
 挨拶を中途で遮られ、名を呼ばれたので小十郎は礼を失しないよう顔を上げた。政宗が人の話を最後まで聞かない方が多い事など誰もが知る由だ。何ぞ言い付ける用事を思い出したのかと、低い声で小十郎が応える。
 視界の端に、煙管の紫煙があまく揺らぐ。金の蒔絵が施された青の羅宇が、小十郎の双眸にいっとき、染みた。政宗はその向こうで、行儀悪く吸口を歯で挟んだまま笑っている。
 伸ばした指先が羅宇を支えた。自由になった唇で、政宗が囁く。
「──戦がまた起これば良いと、そう考えるのは不埒か?」
 政宗は笑っていた。笑っていたが、その心の底には澱が溜まって不愉快な思いを抱え続けている事を、小十郎は知っている。煙管が灰吹きに打たれて燃え滓を落とす軽い音を聞き届けてから、小十郎は息を零した。
「石田に受けたあの屈辱、忘れろとは無論言いませぬ。政宗様がその屈辱を晴らす機会を失われ、酷く憤っていたのも知った上で、小十郎はこう申しましょう。……どうか一息、置かれませ」
 つまらなさそうに笑う顔を歪めて、政宗は煙管を置いた。微温くなった茶器を持ち上げ啜ってから、白い歯を剥く。
「つまりそういう考えは不埒だって事か。石田は関ヶ原で前田慶次に喧嘩両成敗されて、その高い鼻ぼっきり折られちまってるから、アレを踏み越える意味ァ無えってンだろ、小十郎?」
「政宗様、」
「Shut Up!」
 小十郎が開きかけた口を即座に封じて、政宗はぎらぎらと粘り気のある闇色の光を一つ眼に宿して吼える。やがて雪の気配含む冬の穏やかな空気に渫われて、苦いものだけ残った独眼があえかに笑う気配を得た。
「──前田慶次を恨むぜ、俺は。石田を横取りしたとこまではまあ良い、ありゃもう俺にとっちゃ、踏み越える雑草に過ぎねぇからなァ。だが真田幸村と決着が付けられなかった事は譲らねぇ。ずたずたにされた竜の鱗が疼くのさ、手前の六爪を抜けってな」
 空になった茶器を置いて、寂しくなった口を甘やかす為に煙草を火皿に詰めて煙管を咥える。訥々と紡ぐ政宗の語調に、けれど言葉に現した恨みは見当たらない。
「上田城での事、覚えているか」
 政宗が穏やかに問う。小十郎は低く頭を下げ、平伏したまま唇を開く。
「主に対し、出過ぎた真似をしたと深く悔悟致しております」
「Ha! 全くだ。仇敵に止め刺すのを制された上に説教咬まされたこっちの身になってみろ。あの一瞬は腸煮え繰り返る思いだったんだぜ?」
 小十郎は言葉なく、ただ平伏したまま政宗の言葉を聞いていた。顔を上げようとしない忠臣を見遣って少しだけ笑み、顔を上げろと命じた。ゆらりと雁首の金を揺らして政宗は囁く。
「──それでも、お前があの時の俺を鎮めてくれた事にゃ感謝してる。こうやって、あの赤い虎と決着が付けられなかったと悔やむ事ァ俺にとって悪いことではねぇんだろうよ。少なくとも後悔はしてねぇぜ。Thank you.」
 彫りの深い、眼光鋭い小十郎の瞳を射抜くように見つめてそう言った。あの上田城で言えなかった言葉を、季節を一つ跨ぐ頃になって漸く告げられたのだ。二度は言わねえぞと顔を逸らし、政宗は素知らぬ素振りで煙管を吹かす。小十郎は表情を変えない。何か言う代わりに滅相もございませんとだけ返して、拳を握ってみせたのみだった。
 But, と政宗は再び声を発する。
「色んなモンに折り合いつけ損ねて消化不良になっちまってるのはそうなんだよなァ。国内ででっけえ揉め事でも起きねぇかね、いつかみたく小者が群れて謀反とかよ。Gentlemanの狐あたりに焚き付けられて。したら俺が出てって暴れてやんのに」
 打って変わって明るい口調で向けられた言葉に、小十郎はきりりと眦を引き締めて背筋を正す。
「滅多なことを申されますな、政宗様。国内の些事が漸く落ち着いてきたのは僥倖と申す他在りますまい。先の関ヶ原で打撃を受けた我が軍の再編も滞り無く進められておりますし、今大きな戦があれば冬の間の備蓄を憂う事態にも……」
「Stop! 解った解った、それ以上の小言はいい!」
 己の軽口に、怒涛の小言で返されて政宗は閉口する。ひらひらと煙管を振って小十郎の言葉を無理矢理振り切り、不貞腐れた様子で唇を尖らせた。こういう仕草は子供の頃からちっとも変わっていないと、小十郎は息を吐く。兎角、退屈を厭う暴れたがりのお子だった。
「やっぱ真田が相手にゃ良いな。久しくアレの技を受けてねえ。付け損ねた決着もある事だし、上田にでも行ってみるかな」
 そんな科白が紫煙と共にすらりと漏れてしまうほど、政宗は幸村に焦がれている自信はあった。すかさず向かいからそんな暇が在るとお思いですかと鋭い声が飛んで来るから、叶いはしない願いなのだけれど。

 ──対等に撃ち合える存在。この自分が小十郎以外に唯一無二、唯一無比と認めた男。政宗が黒なら幸村が白で、幸村が紅なら政宗が蒼。政宗が竜なら幸村は虎。確かに對である筈なのに混じり合わず、存在を保ったまま飛び込める相手。但し飛び込んだ先に抱きとめるかいなは無く、迎え撃つは焔の二槍。それで良かった。それが良かった。

 狂おしく渦巻く炎を求めている己に、がしがしと頭を掻いて政宗は舌打ちする。机と睨み合っての仕事や国主としての責務に追われる日々は鬱憤を溜め込み、その捌け口を政宗は真田幸村に求めていた。
「引き止めちまって悪いな。頼むぜ、それ」
 長く居座らせてしまった小十郎に詫びて、先程の手紙を顎で示す。無論に御座いますと小十郎が頷き、結局侍女ではなく自分が下げる事になった盆に指先を伸ばした、その時だった。
 忙しなく廊下を渡ってくる足音が聞こえて、小十郎が顔を顰める。障子戸を開けて立ち上がり、声を張った。
「騒々しいぞ、何だ!」
「小十郎様!今、表に──」
 駆け寄って来たのは邸内で使い走りをしている若い男である。その両手に捧げ持たれた細長いものを、息を切らしながら小十郎に渡す。
「……表に、矢が射られまして」
「矢だと?」
 小十郎の語尾が上がる。障子の向こう、影絵のように描かれる二人の遣り取りを、政宗は緩く瞬いて見遣っていた。射掛けられた矢と言うが、見えるのは一本だ。期待と予感が腹の底で雷撃となって政宗の鼓動を痺れさせる。
「一矢のみです。射手は今、黒脛巾が追っておりますが……矢に、文が。括り付けられておりまして」
 政宗に聞こえるのは会話のみだった。男の声に、小十郎は押し黙って文が括り付けられたままの矢を手に取る。それから先程まで男がそうしていたように両手で捧げ持ち、再び政宗の前に跪いて見せた。一つ眼の前に差し出された矢の様相に、政宗の薄い唇が捲れて凶悪に吊り上がる。
 矢羽は染み入るような鮮やかな赤だった。その根元に、射る時の邪魔にならない程度の細く短い赤い布が結ばれている。かの男を示すかのような赤尽くしに、政宗の指先は躊躇いなく文を解いて広げた。
 たった一度、目を通して吐息を零す。気味の悪い喜色に汚れたその表情の儘で、政宗は手紙を火桶にくべた。
「脛巾を呼び戻せ。追っても無駄だ」
 声を掛けられた使い走りの男は、主の命に少しだけ瞠目して逡巡するも、小十郎に無言で促されて一礼する。走り去って行く足音に、小十郎はその背を見送ってから政宗に向き直った。
「真田忍軍が相手じゃ追い付けねぇ。諜報に長けてっからな、あっちは」
 上機嫌で、青い羅宇に骨ばった指先が絡む。もう片手であやすのは赤い矢だ。力を入れて折ってしまえば文と同じく火桶にくべられるだろうそれをそうせず、政宗は手遊びにくるりと回す。
「──真田幸村が単身で来るとさ」

 火桶の中で文がじわじわと燃えていく。短く記された内容のうち、真田幸村の署名の部分だけが最後まで燃え残ってしぶとかった。